「行ってくっけんのう」
もうすぐばあちゃんの命日です。もともと体が弱く心配性で血液型も珍しく生きているのが不思議なばあちゃんでした。
毎朝新聞に目を通し私にいつも「我がためぞ!勉強は人んためにするとじゃなか、我が為にするとぞ。」生きていたら100歳を超えたばあちゃん。
献金献金でない中でも捧げたい。誰もがそんな心情で歩んでいた頃、ばあちゃんの愚痴は「ほうれん草ば食べたか…」
着るものも食べるものも節約の家の中…年老いたばあちゃんは「なしてこがん大変かとか?」そう思っていたことでしょう。
亡くなる前、寒い12月の末、ばあちゃんは急に胸が苦しくなりました。救急車が来て担架に乗せようとしても歩いてうちを出ます。そういうような表情で立ち上がり家の玄関を「行ってくっけんのう」そう一言言って家の外で倒れてしまいました。
じいちゃんの亡くなった時も帰らなかった私です。
ばあちゃんはじいちゃんの後を追うように一年後になくなりました。多分わたしがまたこないこともしっていたかもしれません。『ごめんね。じいちゃんばあちゃん』
私の記憶の中には、じいちゃんばあちゃんの元気で生きている姿しかありません。
いつか人は霊界に逝くわけです。身近な人の死を見つめること、死へと旅立つ人のお助けをすること…そんな仕事もありますよね。アメリカの大学には葬儀デレクター資格を取るための科目もあります。
父母も年を取り私達も年を取りました。
私もたまにじいちゃんばあちゃんには『ごめんね』とつぶやきます。答えは『大丈夫大丈夫!愛してやまなかった孫娘…人が反対迫害し世間がなんと言おうと孫娘!頑張れ!』
なくなってもたまに夢の中に出てきては、『お金はあるか?』
妹も夢を見てじいちゃんばあちゃんのアメリカの姉ちゃんのところに行って迷子になったて夢の中に出てこらした。
そんなじいちゃんばあちゃんなので多分そう言うでしょう。
だから私はいつも感謝感謝、愛された、許されたぶん、そんな家庭に生まれた事に心から感謝してやみません。
あの社会的、統一教会迫害時代に耐えた家族を思うと頭が下がります。日本百選に選ばれた清き水を飲みそれで作られた米や野菜を食べ、空気も清いところです。悪い人が生まれように生まれられない清いところです。
なんか知ったかぶりの故郷自慢になりました。いつの日か故郷に帰りたいなあ〜。