聖書から見る理想の男性、女性像とは?愛とは?
『聖書から見る女性像』
マッサの王レムエルの言葉、すなわちその母が彼に教えたものである。
わが子よ、何を言おうか。わが胎の子よ、何を言おうか。わたしが願をかけて得た子よ、何をいおうか。
あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな。
レムエルよ、酒を飲むのは、王のすることではない。濃い酒を求めるのは君たる者のすることではない。
彼らは酒を飲んで、おきてを忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げる。
濃い酒を滅びようとしている者に与え、酒を心の苦しむ人に与えよ。
彼らは飲んで自分の貧乏を忘れ、その悩みをもはや思い出さない。
あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。
口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。
だれが賢い妻を見つけることができるか、彼女は宝石よりもすぐれて尊い。
その夫の心は彼女を信頼して、収益に欠けることはない。
彼女は生きながらえている間、その夫のために良いことをして、悪いことをしない。
彼女は羊の毛や亜麻を求めて、手ずから望みのように、それを仕上げる。
また商人の舟のように、遠い国から食糧を運んでくる。
彼女はまだ夜のあけぬうちに起きて、その家の者の食べ物を備え、その女たちに日用の分を与える。
彼女は畑をよく考えてそれを買い、その手の働きの実をもって、ぶどう畑をつくり、
力をもって腰に帯し、その腕を強くする。
彼女はその商品のもうけのあるのを知っている、そのともしびは終夜消えることがない。
彼女は手を糸取り棒にのべ、その手に、つむを持ち、
手を貧しい者に開き、乏しい人に手をさしのべる。
彼女はその家の者のために雪を恐れない、その家の者はみな紅の着物を着ているからである。
彼女は自分のために美しいしとねを作り、亜麻布と紫布とをもってその着物とする。
その夫はその地の長老たちと共に、町の門に座するので、人に知られている。
彼女は亜麻布の着物をつくって、それを売り、帯をつくって商人に渡す。
力と気品とは彼女の着物である、そして後の日を笑っている。
彼女は口を開いて知恵を語る、その舌にはいつくしみの教がある。
彼女は家の事をよくかえりみ、怠りのかてを食べることをしない。
その子らは立ち上がって彼女を祝し、その夫もまた彼女をほめたたえて言う、
「りっぱに事をなし遂げる女は多いけれども、あなたはそのすべてにまさっている」と。
あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。
その手の働きの実を彼女に与え、その行いのために彼女を町の門でほめたたえよ。(箴言31章より)
『聖書から見る男性像』
こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。
また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
だから、彼らの仲間になってはいけない。
あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい―
光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである―
主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。
彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、
今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。
だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。
酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、
詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。
そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、
キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。
妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。
夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。
この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。
いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。(エペソ人の手紙5章より)
聖書でいう理想的男女が築く愛とは?
預言(託された神のことばを語る)の賜物があり、あらゆることに通じていても、また山を動かすほどの強い信仰を持っていても、愛がないなら、何の価値もないのです。 そして、自分の財産を全部、貧しい人たちに分け与えても、また福音を宣べ伝えるために火あぶりの刑を受けても、愛がなければ、何の価値もありません。
愛は寛容であり、親切です。愛は決してねたみません。また、決して自慢せず、高慢になりません。 決して思い上がらず、自分の利益を求めず、無礼なふるまいをしません。愛は自分のやり方を押し通そうとはしません。また、いら立たず、腹を立てません。人に恨みをいだかず、人から悪いことをされても気にとめません。 決して不正を喜ばず、いつも真理を喜びます。 愛は、どんな犠牲をはらっても誠実を尽くし、すべてを信じ、最善を期待し、すべてを耐え忍びます。
神からいただいた賜物や能力は、いつかは尽きます。しかし、愛は永遠に続きます。預言すること、異言で語ること、知識などの賜物は、やがて消え去ります。 たとえ特別な賜物が与えられていても、いま私たちの知っていること、預言することは、ほんの一部にすぎません。しかし、私たちが完全な存在とされる時、これら不完全な賜物は不要になり、消え去ってしまうのです。それは、こんなことから説明できるでしょう。子どもの時の私は子どものように話し、子どものように考え、子どものように判断していました。しかし、大人になると考え方も成長し、今では子どもっぽいこととは縁を切りました。 同様に、今の私たちの神に対する知識や理解は、そまつな鏡にぼんやり映る姿のようなものです。しかし、やがていつかは、面と向かって神の完全な姿を見るのです。いま私が知っていることは、おぼろげで、ぼんやりしています。しかしその時には、いま神様が私の心を見通しておられるのと同じように、すべてがはっきりわかるでしょう。
いつまでも残るものが三つあります。信仰と希望と愛です。その中で最もすぐれているものは愛です。
(コリント人への第一の手紙13章より)
これから家庭を持とうとされる若き人たちへ、聖書の聖句を送ります。
良き相対者が見つかりますように。アージュ!