lilacのアメリカライフ

アメリカ生活をライラックの目線からお届けできたらと思います。、ダルメシアンのハルちゃんとの思い出の記録

精誠

今後、

真なる息子・娘が尽くすべき精誠とは何でしょうか。

現実的な生活舞台における精誠ではなく、

希望の精誠、

栄光の精誠、

忠誠の精誠、

侍る精誠を尽くさなければなりません。

そのような精誠を残していってこそ、

天国が私の天国になり、

その父が私の父になるのです。

今までの精誠は、

蕩減する途中での精誠でしたが、

これからの精誠は、

天に侍るための精誠でなければならず、

侍る場に同参するための精誠でなければなりません。

(1967.1.29)


創造の精誠

人間がいくら精誠を尽くしたとしても、

神様の精誠には及びません。

私がいくらうまくやったとしても、

誇りたいことがあったとしても、

今まで神様か世界のサタンに対して闘い、

勝利の土台を用意した、

ということを知らなければならないのです。

ですから、

私たちが精誠を尽くさなければ、

そのような神様の心の根本をうけつぐことができません。

神様は、

復帰途上にいる息子.娘をして、

解放された自由な安息の場で暮らすようにするために、

一つの家庭を立てるだけでなく、

一つの氏族を立て、

氏族だけでなく、

一つの民族を立て、

民族だけでなく、

一つの主権国家をたてるために今まで苦労してこられたということを、

皆さんは知らなけへばなりません。

(1971.3.14)


復帰の精誠

堕落してサタンのしもべのしもべになった人間を、

天のしもべのしもべに救援するためには、

サタンとサタンの国家の中で精誠を尽くしたいかなる主権者や民よりも、

神様御自身の精誠が不足であれば、

一人も救い出すことはできないというのです。

なぜかというと、

サタンが讒訴するからです。

ですから、

サタン世界の人間たちをそのままにしておいては、

天地万物を創造された神様のしもべとして立てることはできません。

それで、

神様は、

この地にいる人間たちを救援しようとすれば、

サタンが精誠を尽くした以上の精誠を尽くさなければならないのです。

そして、

サタン世界の主権国家のために忠誠を尽くす民がいれば、その人が忠誠を尽くす基準以上の位置に立たなければ、サタン世界にいる人間たちを救援することができないというのです。

神様は、

このように歴史を通して人間たちをしもべのしもべからしもべに、養子に、息子の位置を経て新郎新婦、

父母の位置まで復帰しなければならないのです。(1967.1.29)


神様は永存される方です。

神様が涙を流されるのは、

死の道を一掃するためであり、

苦痛の道を一掃するためであり、

悲しみの道を一掃するためです。

神様が悲しみと苦痛と死の道を一掃するために先に涙を流し、血と汗を流してこられたことを知って、今日の私たちは、代わりにみ旨を成し遂げなければなりません。神様が死の場に出ていってはいけないのです。

今まで神様は、

最後の死の場、

最後の涙を流す場、

最後の血と汗を流す場に私たちの先祖を立てたのです。

このようにしたのは、神様に愛がないからではありません。

そのような場を解消するために、

神様もそれ以上の痛みを感じなければなりませんでした。

愛する子女が死ぬその瞬間、

父母の心はどれほど苦痛であり、

愛する子女が苦痛を受けるのを見つめる父母の心情はどれほど痛むでしょうか。

自分が死ぬより、もっと心を痛めるというのです。

このような痛む心情をもって、人類の歴史が始まって以来、苦痛を受けてこられた神様なのです。

私たちは、一代を中心として一度苦痛を受けて倒れれば、

私たちの責任はすべて終えることができますが、

今まで神様は、

大勢の先祖たちが死の道を行くたびに、

涙の道を行くたびに、

血と汗を流す道を行くたびに、

悲しみと苦痛の道を行くたびに、

激しい苦痛を受けてこられたのです。(1965.1.1)


み言と精誠

原理のみ言を中心として精誠を尽くす人たちは『原理講論』を毎日のように読んで、読んで、読むのです。朝に読んで、昼に読んで、夜に読みながらも嫌にならないというのが精誠です。同じことを、一千回、一万回繰り返すのです。繰り返すときに、四十年前に尽くした最初の精誠がだんだんとさめていってはいけません。(1992.8.27)


訓読会の総時間がどのくらいかということを計算し、それが多い民族であるほど優秀な民族であり、それを条件として優劣を定める時がすぐに来ることを知らなけへばなりません。その時間が長ければ長いほど、訓読会の時間に精誠を尽くしたということなので、理解した基準が高くなるのであり、

そのような人々の人脈が、天一国、神の祖国を守っていく主人公にならざるを得ないというのです。(2004.1.1)


精誠に対する姿勢

天の前に精誠を尽くす人は、

精誠に対して、

いい加減に接することはできません。地上で、ある食口が一つのりんごを先生のところに持ってきたとしても、先生はむやみに手を出しません。精誠を尽くした物に過って手を出せば、赦しを受けることができません。

ですから、神様の一片丹心の心情と神様の最高の努力を無視すれば、天倫の前に容認されない罪人になるというのです。

ほかの人が精誠を尽くした物に、

むやみに手を出してはいけません。百くらいの精誠を尽くした物であれば、百十くらいの精誠を尽くしてこそ、手を出す資格があるのです。例えば、ある集団の責任者が、精誠を尽くした物をもらって天に連結させられなければ、

精誠を尽くした人が多ければ多いほど早く滅びます。

ですから、神霊的な集団は、当代には栄華を極めるかもしれませんが、天道に外れることが多く、

すぐに滅びるのです。

このような天倫の法度は、

皆さんの生活において、

公式的に適用されるということを知らなければなりません。

だとすれば、みなさんが今、

歩んでいる生涯路程と、

暮らしている生活環境にも、

やはり不可避的に適用されるのです。(1967.1.29)


『精誠』まだまだ多くのみ言がありますが今日は、この辺で終わります。

ふと気づいたことがあります。

メシヤ、再臨主、真の父母であるお父様。

聖和がいかに神様の血と汗と涙の苦痛の場であったか!と感じてやみません。

ただの苦痛ではない激痛です。


また精誠のこもった献金も受け取る側はそれ以上の精誠が必要なのですよね。


当代で滅亡していく神霊集団……

すべて語られていましたね。


心を大切に…読んでくださった方の平安をお祈りします。

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