lilacのアメリカライフ

アメリカ生活をライラックの目線からお届けできたらと思います。、ダルメシアンのハルちゃんとの思い出の記録

大雪

3月なのに

大雪に見舞われて身動きが取れない一日となりました。


雪を見ながら…


天災故に霊界へ旅立った霊人の方々の、魂が雪と重なります。


何を言ってるか、わからん!方はスルーしてください。


こんな大雪の日は

「雪の華」

「なごり雪」いい曲ですね〜

カラオケ大好き、

パチンコ大好き、

日本舞踊大好き、

私の叔母たちです

叔母たちの話はいつかまた書くかもしれません。

もう10年以上あっていません。


いつか帰ろう…帰ろう…思いながらなかなか帰れない…


10年一昔…


もし、日本に帰れなかったら私の魂も哀しく寂しく、そのうち恨み節になるのか?


神様を探してメシヤとであって、恨み節で気が狂ったらどうなるだろうか?


宗教との出会いは科学では証明できない答えを、求めて門を叩く、

何故か?

みんな幸福を求めている。



この頃は霊界の存在もポピュラーになり、直ぐ精神的病気に結び付けられる事はない、が、

都合が悪かったりした場合、身近な家族から無理やり精神病院へ送られることも無きにしはあらず…


誰も聞こえない声が聞こえる…

誰も見えないものが見える…


これらが何かしらの波長、プラズマ、念力、想念、

宗教では祈り、神の守り


もう少しで。人間が科学も宗教も本物の神に、出会おうとしているのかもしれない。


出会ってほしくな者は誰か?


たくさんの魂が出会いたかった神様に出会えず、逝ってしまったとしたら…


生まれて死んでいく人間の方程式

人間の選択は、個人から、歴史までも変えてしまう。


聖書の中のヨブを思いながら、ある人たちが思い出される。


神の祝福を受けながらも、同時にサタンの試練も受けている。

祝福家庭の道もヨブのような人生かもしれない。


伝道の書

コヘレトの言葉


『コヘレトの言葉は旧約聖書の全文書の中においても、取り分け名言の宝庫とされている。同書からの引用や同書由来の慣用句は、ユダヤ教文化、及び復興ヘブライ語文化の評価を高め、かけがえのないものにしている。


『コヘレトの言葉』は知恵文学に属しており、コヘレトを介して、宗教、民族を超えた普遍的な疑問(人生の空しさ、諸行無常、「国破れて山河有り」といった国や社会について)の哲学的考察が試みられている。同書において提示される世界観は、旧約聖書の中で異色である。そのため、キリスト教やユダヤ教を信仰していない異教徒や無宗教者、さらに不可知論者などにも、大きな違和感を与えることが少なく、比較的馴染みやすい。


旧約聖書における一般的な思想からは、概ね次のような世界観が読み取れる。


神は人間に自由意志を付与しており、人間が自らの意志で義を選択し行うことを望んでいる。

神は人間それぞれの行いに応じて、祝福か罰で報いる。

それに対して、『コヘレトの言葉』では決定論に基づいた世界観が述べられている。義人も罪人も等しく死ぬことなど、この世のすべては定めがあり、その定めは決して変えることはできないと論ずる。もし、すべてが予定されているのならば、自由意志なるものは虚しい。すべてが予定されている世界では、普遍的な正義を行うことに、積極的な価値を見出すことができないのではないか、と論ずる。


『コヘレトの言葉』には厭世主義に基づいた思想が多分に含まれており、それだけでも十分、同書を異文化の世界観を持つ書物と見ることもできよう。その反面、人知の及ばない事柄は人間からは何もできないのであり、コヘレトはその人間をありのままの姿で肯定もするといった視点もある。この点はむしろ楽天的と評することも可能である。


『コヘレトの言葉』にはこういった思想が散見されるにもかかわらず、一方では神を畏れその戒めを守るべきことを説く箇所も少なくはなく、同書の結びの言葉も実にそれである。


命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。

— (8:5)

神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり

悪人は神を畏れないから、長生きできず

影のようなもので、決して幸福にはなれない。

— (8:12~8:13)

すべてに耳を傾けて得た結論。

「神を畏れ、その戒めを守れ。」

これこそ、人間のすべて。

— (12:13)

このように、『コヘレトの言葉』が語る根本的な世界観は、必ずしも聖書全体を貫く世界観を乱すものではないといえる。』ウィキペディアより。



『天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、

殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、

泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、

石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、

捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、

裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、

愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。

働く者はその労することにより、なんの益を得るか。

わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。

またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。

わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。

今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。

わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。

わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。

わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。

人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。

みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。

だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。

それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。』コヘレトの書より


しかし、罪悪歴史は、人間がどこまでも悪になることを証明している。


至るところで繰り返される悪、悪への追求を続ける悪人、誰が何時、悪へと向かい悪なる行動を取るのか、測り予言する事は難しい。


獣よりも劣ることが出来る人間。


なんと悲しい存在か!


『わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。

それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。

しかし、この両者よりもさいわいなのは、まだ生れない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である。』コヘレトの書より。


自然の絶景は息を呑むような素晴らしい絶景は単純ではない。


悪を避け、神を求め、良心の声に耳を傾ける。

悪の繁殖に感染せず

善なる人たちを友とする。


神様の粋なはからいとでも言える、突然の大雪の中、こんなこと考えました。


悲しみも痛みもたくさん抱えながら生きている我が子達をじっと見つめる神様の吐息が聞こえてきそうな気がします。


悪は根が深く深くサタンの親玉につながっています。

地獄の門が開き悪霊たちが相対基準を結びたくて仕方がありません。


祈りとみ言で、霊性を高め、心身のプロテクトは、柔術と、銃で、身を守る時代が来たんですよ。


一人で夜道を歩く時も、

カップルで人気のない海岸でデートする時も、

銃さえあれば、悪人に、やられっぱなしという事はないでしょう。


たくさんの人たちが、襲われて亡くなった事件は後を立ちません。

警察が来るのに何十分待ちますか?

悪人は待てません!

完全に狂っているのですから。

日本の中の事件簿を見ながら思いました。


神を信じる人たち

霊界を知る人たち

悪と闘う方法ありますか?

私はアメリカに住みながら銃は、必要だと思います。

みなさんはどんな考えを持っていらっしゃいますか?

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